※ ニュージャージーの秋 ※

New Jersey Photo

ニュージャジーの秋

  友人のマイク夫妻の自宅にホームステイさせて貰ったのは2,000年の4月から5月初旬であった。
その翌年11月に幸いわが家に夫妻を迎えて、京都や奈良の古寺、能楽鑑賞の紹介などで交歓することが出来た。
昨年は7月に須磨の母が怪我で入院する事故があったが、その後母の回復は極めて順調で9月23日には一緒に大阪の
シンフォニーホールで岩城宏之指揮のアンサンブル金沢でチャイコフスキーのコンチェルトを聞きに行くくらいとなった。
マイクに米国の紅葉見物を打診すると10月の半ばが最高という。
そこで長谷工の証人調べが終わる9月25日の翌週から旅程を組み、10月18日に帰国することにした。
教会の日曜の練習も2回休むだけで済む。
9月28日はユダヤのRosh Hashanah(Head of New year)という新年の祭りである。
我々は言わば「新年の客」という光栄に浴することになる。
8月6日に「エデンの彼方」(far from heaven)という米国映画を美津子と神戸で見た。
新聞の評判ではコネチカット州の紅葉の風景が美しいとある。事実、映画はため息が出る美しい紅葉であった。
マイクにメールしたら彼も既に見ていて
「あの映画の最初の部分と数シーンは我々の町でロケしたものだ」と誇らしげにいう。
8月末に永年放置していた背中のアテロームの腫瘍が化膿して痛くなった。
曲折あったが9月の10日に宮地病院で抜本切開手術を受けた。完治したのは24日である。ハプニングであった。
17日までは完全に断酒した。
今回は3年前のように我々だけでボストンなど数都市を旅行するということではなく、
マイクが全期間休暇を取って呉れて行動を共にしてくれる。29日はお馴染みのMKタクシーを手配した。
25日以降は秋らしい快晴が続く。お向かいの野村さんにも留守の挨拶をした。
3月の黄山登山以来半年ぶりの海外旅行である。SARS騒ぎも当面終焉してる。
イラクやパレスチナで戦火の余燼くすぶるのは残念である。マイク夫妻の子供は3人で、
先妻との間に出来た38歳になるコンスエロは97年に結婚して3ケ月前にマンハッタンの
アパートから引っ越してニュージャージーの北のバーゲンフイールドに住む。
次女マラはヴァージニアに住むフリーライターであるが、
living togetherの相手ダグとの間に5月、キャシデイーという娘が誕生した。
息子のコリーはメリーランンドの芸術カレッジを中退して現在N.Y.のブルックリンでアパートに住み、
職探しである。マイクは3人を我々に引き合わせるべく計画してる。
マイク邸は1910年の建築で最初は電気もなかったらしい。
最初の持ち主夫人が玄関前に立つ写真が居間に飾ってあるが、その姿はまぎれもないVictorianスタイルである。

29日 MKタクシーは素晴らしい。11時25分に予告とうり到着、12時半に空港に到着出来た。
テロ以後の安全チェックで荷物に鍵をかけてはならない。テープを張った。
今後は帯をきつく締めておくしかないであろう。中継地のデトロイトでは靴も脱いだ。
持ち込む僅かの食品もすべてリストアップした。
当日の夕方5時にニューアークに到着、夫妻の出迎えを受ける。
機内、文春で見た記事、8月の停電(black out)の際にタイムズがユージン・オニールの
「long days journey in to night」という戯曲をもじって「long days journey in to light」
と書いたらしいですねと言う。懐かしい風景を自宅に向かう。到着するなり、隣家のスーザン夫人に会う。
カルラによれば彼女は最近離婚したらしい。前回はスーザン一家と3人の子どもも交えてなごやかに交流した。
2年前にテロ後の証券不況で主人がレイオフされたらしいとは聞いてたが。
まるで映画のような話なので我々にはショックであった。
偶然来ていたコリーと共にマイクが作って呉れたパスタを食べた。
食後コリーのイタリア時代の学友でガールフレンドのアリシャが入って来て、一緒に日本の羊羮を食べた。
彼女は韓国風の顔だちで質問すると「自分は養女である」という。中国で買った扇子をあげたら似合っていた。

30日  勝手知ったる近所を散歩した。NOMAHEGAN公園から続いてLENAPE公園がある。
ノマヘーガンはマンハッタンの有名なセントラルパークと同じ設計者の設計で今回は鹿にも出会った。
当地ではりすや野生の鹿は珍しくない。レナーピとはインディアンの部族名らしい。
trap and skeepと看板にあるのはライフル射撃場があるらしい。週末には銃の音が聞こえるそうである。
レナーピの堤防の路を歩いてるとCanada Geeseが沢山いる。Canadaは人名という。
ウエストフィールドの靴屋で美津子が3足靴を購入した。
(内2足は我々帰国までに受け取れぬ事態となった)マイクから我々の滞在中の行動スケジュール表を貰う。
rainy dayと記してあるのは「予備日」のことである。私もany flexibility OKと言った。
午後から車で
プリンストンの近くのハミルトンにある「Grounds for Sculpture」にゆく。
独立戦争前の13州のコロニー時代18世紀に州の博覧会があり、その跡地が広大な彫刻公園となってる。
天気はすこぶる良い。シニアーは入場料1割引きの9ドルである。植物で出来た大きいアーチがある。
作品も面白いが公園内の植物に工夫がされてる。
丘の上に叙情的な母子像があり、感心してたら紳士が「丘の麓の赤い花は本物でないよ」という。
偶然にも作者のSeward Johnson jr.氏が写真家と来ていてポーズを取ってる。この人は有名な人らしく
(Johnson & Johnson社の息子)、公園内では彼の作品が多数ある。
たとえばルノワールの「船遊びの昼食」の登場人物が実物大で公園の湖畔にある。
あまり似ているので、以後我々は散歩していても実物の人間を彫刻と勘違いするほどとなった。
もう馴染みになったジョージ・シーガルの作品は29年の恐慌時に配給のパンに並ぶ5人の列である。
「9つの女神」の前で、マイクは「昔カルラをロスで初めて食事に誘った店の名前と同じだ」という。
大人が楽しめる公園である。夜間のライトアップもある。湖を上手く利用した展示は絶妙である。
カフェで貴婦人に男性が話しかけてる像があり、カルラが「何を話しかけてるのでしょうね」というので、
私はキット「Madam,I'M ADAM」と言ってるのですよと言った。これは逆から読んでも同じに読める冗談。
帰途はエチオピア料理のMAKEDAに行く。薄いパンを手でつかんで料理を挟むように食す。美味であった。
前回連れて貰ったエジプト料理の店は?と問うとテロ事件以後アラブ人経営の店は客に疎まれ閉店したという。
テロ事件の影響は随所に見られる。食後ジャズ見物予定であったが、当方もさすがに眠くて断わった。
交通標識の「STOP」の下にBUSHと落書きしてある。帰宅してカメラのフイルムが巻き取れぬこと判明。
1本取り出して感光させてしまった。夕方から風が吹いて寒く感じる唯一の夜であった。

1日 曇り。プリンストンの近所の
「Duke Farms」にツアー参加を申し込みして呉れていた。タバコ等で産をなした人の相続人ドリス・デュークが
1958年に開放したガラスの中の庭園で、門から事務所まで車でも相当の距離がある。
美しい噴水。庭園には日本や中国のもある。
しかし、
日本の植え込みの刈り方は日本的とは言えないし、中国の湖底石も見られない。
まあ平和な花園風景である。団体は1年前から予約しておかねば取れないらしい。
15人をグループで案内して呉れる。一般に米国のこのような施設はツアーに参加しないと見られない。
勿論メトロ美術館のような大きな施設はこの限りでない。従って人気のある場所は事前予約が必要である。
帰途はUnion CountyのArboretum(樹木園)に入る。鷹が空を舞う。熊も700頭いるそうである。
路なき路を4人で歩いた。その広大さに驚いた。countyは州と市との間に介在する行政単位である。
4時にTea Sally Lunnsで英国のアフタヌーン・ティ風にお茶を飲み、各種のスコーンを4人でわけた。
最後に1789年ころの当地の富裕な商人の家と1760年のオランダの3つの教会を統括する事務所と
いう史跡を見た。前者ではジョージ・ワシントンも泊まったらしい。台所から入る奴隷の寝る部屋もある。
砂糖は円筒状の固形で、金属の器具で削りとって食べたらしい。
駅前の写真屋ボブの店に寄ると暗室で無事フイルムを取り出して呉れた。
これなら写す都度この店に来れば何とか記録が残せる。ボブに
「貴方は私にとってクランフォードのメシアのようだ」と冗談を言った。隣の酒屋でビールなどを買う。
夜は居間で持参した中村歌右エ門の道成寺の踊りのヴィデオを共に観た。

2日 晴れ、マイクは朝歯医者に行く。入れ歯が合わなくてやり直しとなったようである。
今日はハドソン川のクルージングである。10時半に4人でハドソン峡谷に出発した。
ニューヨークの西を流れるハドソン川を遡れば東にBerkshire Mt.Litchfield  Hills,
西にCatskill Mt.を挟んで氷河時代に出来た峡谷が成立してる。
1609年、ヘンリーハドソンが「ハーフムーン号」で探索してから命名した川である。
彼は今日訪問するウエストポイントあたりで水深60m、嵐が吹いてそのあたりを「この世の果て」
とも命名して引き返した歴史がある。我々はN.Y.Thruwayを通過して北に方向を変えてPalisades Parkwayを北進する。
パリセイドとは急な崖が河に向かって落ち込む様を言う。
もうこのあたりはニューヨーク州である。
紅葉はチラホラ。最初に展望台に行く。
観光客は誰もいない。1909年ころにピエモント・モルガンの経営者パーキンス氏がこのあたりの自然
の景観を保存するのに熱心で、相当の寄付をして現在の景観が保たれてるという。360度の展望である。

そのあたりはBear Mt. Parkという。そこから更に北に行くと陸軍の学校で有名なウエストポイント地区に入る。
この学校には高校から一人しか入れない超エリート校である。ブッシュは彼らを惜しげもなくイラクに送り込んだ。
マイク達の家の近所にも、卒業と同時にイラクへ行った若者がいるそうである。
カルラがそう言って今の政府を批判していた。
 さすがのマイクも路を間違えて戦車が入り口に展示されてる博物館の前を2度通過した。
3人の兵士が警備する検問所でマイクはIDカードを提示、車はトランク、ボンネットを開ける。
クルーズは1日1回で12時半に出帆する。1人13ドルである。
乗船場の北にはウエストポイント兵学校の城のような威容が聳える。天気だが甲板は寒い。
カルラによればこの辺りで1787年の独立戦争の際には
イギリスが川上から攻め込まぬように太い鎖2本を川に張ったらしい。
(結果は攻めてこなかった)1時間半のクルーズは北進する。ガイドは両側の崖が氷河の産物と説明する。
向こうにニューバーグの町が望見出来るところに島があり、要塞のような跡がある。
カルラにあれは何かと問うと説明して呉れた。
ある金持ちが島と川の光景を気に入って豪壮な家を建てたが奥さんの気に召さずN.Y.で暮らしていた。
時々舞踏会を開いた程度であったが、ある夜邸宅が火災となり200フイートも火柱が上がって燃え尽きた。
今は廃墟であるという。私は寒いので船室でビールとワインを飲んだ。
川の西の鉄道では2台の機関車(野球のダブルヘッダーの語源)で沢山の貨車が牽引されて行く風景が見れた。
下船の際にマイクは2ドルばかりをガイドの男性に渡してる。他の人も同じ。
我々は写真を撮るために最後に下船したが別の人がチップの札束を数えていたので、
乗務員で山分けするように思えた。ここはN.Y.から50マイルも北である。
我々は一旦南に下がりベアーマウンテン橋を渡り川の東を北上して「BOSCOBEL屋敷」に到着した。
ここの景観も美しい。屋敷の由来はオランダ人の商人デイックマン(1755―1806)
の設計で建てられたもので、妻のエリザベスが1808―1823年まで住んだらしい。
彼は英国の軍隊の御用達であったらしく調度は英国のものが多い。
元々はここから15マイル南に在ったものが老朽化して1950年
代にわずか35ドルで競落されて、篤志家の手で現在の地に移築されたもの。
息子のピーターもここに住んだ。
屋敷の名の由来は英国のチャールス2世が1651年「ボスコベル森」の近所のworcetenの戦いに破れた際に
<ロイアルオークの木に隠れて助かったという故事のあるオークを使った
「かぎたばこ入れ」が地下のコレクション室にあるからである。
廊下に飾られてる米人画家のウエストを私が知ってるのでカルラは感心してくれる。
最後にビスケットが供された。兎に角、庭の芝生から見るハドソン川の美しい景色は思わず息を飲むものである。
今次の旅行は富裕な人たちの軌跡を辿る建造物をたくさん見られた。

夜は近所の日本料理店コトブキに行く。日本酒やビールは持ち込んだ。
帰宅後はコリーの高校時代の演劇のヴィデオを見た。私は途中で寝てしまった。11時就寝。

3日 朝はベーグルと卵とじゃがいも。じゃがいもはいろんなタイプ(形)のものが冷凍であるから、
料理はてっとり早い。車でN.Y.を目指す。途中マイクは銀行のドライブインに寄る。
ケースに100ドル札を入れると空気の圧力で銀行の事務所を往復して小銭が返って来る。
駐車場は3年半前とほぼ同一の値段で12時間8ドルである。11時半にメトロポリタン美術館に行く。
マイクの勤務先ランダムハウスが寄付してる事情で我々も入場料は不要である。
欧州の貴族の部屋が移築されて展示してある。エジプトの部屋など新たな驚きであった。
特別展示で3月に登山した「黄山の夢」展をしてたので見に行ったが、大した事はなかった。
軽食を館内で食べた。私は館内でトイレに行ったが迷ってしまった。
警備員にピカソの絵の部屋を聞くと「ピカソは無数にある」と誇らしげにいう。
そこで偶然絵ハガキで買った「Edward Hopper」の絵の部屋だというとすぐに案内して呉れた。
歩いてセントラル公園を横切る。湖ではラジコンで子どもが遊ぶ。
私の新しい靴が痛くなってきたのでタクシーでリンカーンセンター方面まで乗る。
Peter'sというイタリヤ料理、私はオニオンスープと鮭のステーキ、美津子はパスタ。
8時からオペラ「ルチア」を見た。ドニゼッティーの先祖はスコットランドで、舞台は故知の地である。
ソプラノのJennifer Babidgeは妊娠中であるが、熱演であった。
席は前方の真中という特等席であり、内容も良かった。
N.Y.City Operaは何時も簡素な舞台装置であるが効果は十分である。
10時40分に終わり、車中から7分の月を見て12時に帰宅した。
(満月は10日)舞台でも月の大きな姿が照らされていたので余計に月を感じた。
隣家のゼルダにはもうボーイフレンドがいて隔日に家に来るという。

4日 曇り。今朝はツナサンドとアップルサイダーである。
マイクの取引先にLarryさんという奇特な人がいて、
我々の訪米中に自分の飛行機でマンハッタンを空から見るという遊覧飛行にお招きを受けた。
ニューアークの飛行クラブに行くとLarryを紹介された。彼のはPiper機である。翼から燃料を入れる。
操縦士を含めて4人乗りなので、美津子と私しか乗れない。
最初にトイレを済ませた。
始めは翼に乗り、座席に座る。ベルトも不要である。大きなウオークマンのようなのを頭からかぶる。
美津子も「私みたいな田舎者がねー」と感慨深げである。離陸後10分もすると
ハドソン川の河口に到着し、自由の女神やエリス島が見えて来る。
ラリーは指をさしてカメラで撮るように仕種をする。右手にグラウンド・ゼロも見えた。
3つのビル跡が痛々しい。嘘のように摩天楼がくっきりと見える。セントラルパークは案外広い。
ジョージワシントン橋の辺りから右に旋回して帰途につく。
ラリーが「あれがパリセイドだ」というのは氷河時代に削られた両岸の崖である。
川の西にもマンション群がある。土曜とてヨットハーバーには多くのヨットが見られた。
眼下に見える自由の女神は感動深い。「海の上のピアニスト」を見た際に移民が女神
を見て興奮するシーンがある。新天地に着いて期待と不安でどれだけ多くの移民が
女神像を祈るように見つめたかを想起すると万感が迫るのである。
1880年頃、エリス島で手続きを済ませてマイクの祖先はN.J.のブランズウイックに、
カルラの祖先はマサチュセッツに落ち着いたのである。
空から見るクランフォードはかなりマンハッタンの南である。殆ど衝撃なく着陸した。
滑走路が濡れてるので小雨が降ってるのに気がついた。上空は視界が極めて良かった。
ラリーへのお礼には京都の中村さんが制作した桐で出来たペンシル立てを贈呈した。
夕食はブラジル料理である。私はスクランブルエッグを注文。
10ドル以内の料理は分量も少ないが14ドルもすると食べ切れない。
マイク夫妻と美津子の注文分をdoggy bagで持ち帰った。(後日おいしく頂いた)
今晩は近所のMaple Woodの公民館(Burgdorff Cultural Center)でカルテットの演奏がある。
マイク達も彼らを聴くのは初めてだそうである。この町は歴史が古いらしく街路樹が大きい。 
元は教会であった建物で,Arbor Chanber Music は多くの篤志家で支えられてる。
最初はシューベルトの弦楽トリオである。violinは中国系の大柄な女性、violaは韓国系の小柄な女性である。
すごく迫力のある弾き方である。休憩後はシューマンのピアノ4重奏。美津子も音の美しさ、
演奏のダイナミズムに感動している。演奏が日本に比べてダイナミックである。
プログラムでは学生は無料とある。米国カルチャーの底力を見た思いである。長く良い1日であった。

5日 晴天。ユダヤ暦によるヨム・キプルの日である。
ユダヤ暦は月の周期28日で1月であるからキリスト暦とは差異が生じてくる。
新年から10日、償いの日で断食が始まる。カルラの健康上から薬を飲む必要があり、
夫妻は断食をしないが、教会に行く。朝は我々はタイのジャスミン米にふりかけとほうじ茶で済ませた。
カルラにバスの駅まで送って貰い、我々だけで14番St.のJyoice Theaterのモダンバレー鑑賞である。
バスはN.Y.まで約1時間,料金は往復で10ドルである。前回は7.5ドルであったので値上がりしてる。
(汽車も10ドルから16ドルに)シアターの料金は45ドル。マイクがネットで予約して呉れた。
3つのグループがあって、今日はMOMIXである。
(他はBASEBALL,PASSION)劇場を下見しておき、
南のクリストファー駅まで1駅、地下鉄で行き、グリニッチヴィレージを散歩した。
ワシントン広場では日曜とて宗教家の演説を静かに大勢の人が聞いている。
名物のアーチは修理中であり、ニューヨーク大学の聳えるビルを背景に写真に納めた。
2時からの公演は男女の若く溌剌としたダンスである。開幕はハンモックに揺られて寝てる美女が
バッハのラルゴの音楽で登場すると何時の間にかハンモックがブランコとなりそれがダンスとなる。
趣向が各場面面白い。帰宅してサンドと紅茶の軽食後8時に就寝した。
酒なしデーであった。コリーはペットの猫と共に下宿に帰ってしまった。

6日 この日はマイクが教会(シナゴーグ)で聖典(トーラ)を支え持つ役目があり、彼らには重要な日である。
晴天も続いてるので我々のみでクランフォード探索の日と決めた。徒歩で駅の南を歩いて見た。
UNAMI公園が西の外れにあるのでブラブラ歩いた。
各家は10月末のハロウイーンデーに備えてカボチャに目鼻の人形
(Jack of Lantern ジャコランタンと発音する)を飾ったりしてる。庭の道路沿いに大型ゴミを出してる家が多い。
(カルラによればN.J.州では行政はゴミの回収はせず、業者と各家が契約するらしい)
ゴミ出しの前になるとヤードセールやガレージセールをする。ウナミ公園はそう大きくないが静かで清潔
なたたずまいである。どうも駅の南は樹木や家並みが北に比べて粗末な印象であり、
マイクに質すと「新しく開発された住宅地」であるという。
スーパー(PathMart)で買い物をした。近所のKingというスーパーにはカルラは
会員カードを持ってるのにどうして行かないのかと問うと「物は良いが高い」という。
駅前のファミリーレストラン(店名)でスープつきのサンドを食べた。
チップはテーブルの上に置いても勘定の際に記入しても良い。
3年前に行った姉妹の経営する「CHARI TEA」という喫茶店は閉めたそうである。
一旦マイクの家に帰り、ビールを飲んで午後はノマヘーガン方面に出かけた。
公園の東の探索である。小川の側の標識に「Cranford」の謂われが記されていて、
独立戦争の際にCraneという人がワシントンを助けて川をfordingした故事に因むという。
何時見ても美しいノマヘーガンを過ぎてレナピ公園を更に進むと池があり、一人の釣り人がいる。
白鳥が2羽絵のように水面をすべるように泳いで行く。
ここからターンして静かな住宅地を眺めながら帰宅した。夕食は先日のブラジル料理の持ち帰り分である。
それに蜂蜜とリンゴ、此れは新年に良いことがあるように食べるそうだ。
私が「貴方たちも教会に日本流に言うとmelt downしましたね」というと英語でも
「溶け込む」というのは同じ表現らしい。前回は教会を変えたところで、
彼らが新しい教会の会員として気苦労をしてることが分かっていたからだ。
食後は共に歌舞伎の「(木曽)義賢最後」というヴィデオを見た。片岡孝夫時代のものである。
 
7日 9時に出発。パリセイドハイウエーでハドソン川の東のハイドパークの町に行く。
先ず、Vanderbilt Mansionの見学である。入場料は8ドル。川の西に美しい修道院が見える。
19世紀に鉄道や汽船業で財産を形成したヴァンダービルト(フレデリック)氏は
5番街にも立派な家を有していたが1895年にハイドパークに広大な土地を買って、巨大な館を建築した。
氏の生涯は1856―1938で妻のルイーズが1926年に死ぬと
子どものない氏の財産は姪のヴァン・アレンさんが相続した。
アレンさんはすぐにこれを連邦政府に寄付して1940年から一般公開されたものである。
25万坪の広さである。邸宅は左右対照型で見た目には大きく見えないのであるが、
中に入ると広いのである。私見であるが米国の1875―1900年を特にgilded ageと呼ぶが、
米国の繁栄した時代で、公共への寄付の素地もこの年代に根があるように思う。
車の登場する以前なので馬車小屋もある。客のメイドの部屋だけで13もあることで、その大きさが想像出来よう。
12時半に屋敷を出て、昼食はDiner'sという店でする。汽車の食堂車がダイナーdinerであり、店はこの形にしてある。
マイクの説明によれば1950年代に食べられていた“風”にメニューがしてあるらしい。
チェーン店ではなく、皆独立経営である。滞在中に多く見かけた。
次いで同じ町のFDRの家跡に行く。ここも入場料は8ドル。
1882―1945年のフランクリン・ルーズベルトの生家である。
ここでは大柄な愛嬌のある婦人が説明して呉れる。まず、「皆さんはどこから来ましたか」という質問。
外国人は豪州1人と我々だけであった。
私は第二次大戦中の彼の「炉辺談話」を知ってるがこれはfireside chatsというらしい。
シャイな性格の彼を指導した先生がいる。庭園のバラ園には夫人のエレノアと埋葬されてる。
マイクやカルラは、欧州から逃れてきたユダヤ人を彼が入国拒否したことを理由に彼を評価しない。
夫人のエレノアは著作や演説で多大の寄付をしたということで心から敬愛している。
我々日本人にはヘレンケラーが有名で、エレノアの存在は知らないというと怪訝そうである。
彼は不幸にも1921年、39歳の時に小児麻痺になり、特別製の車椅子、車もある。
裕福な家に生まれた彼は母親のサラの影響も絶大である。
エレノアはサラとそりが合わず、この家と離れたところに質素な住居を建てている。
その住居へも最後に訪問した。豊かな水量で小川が流れてる。絵画
のような秋の景色であった。TDR テオドル・ルーズベルトは彼の伯父さんである。
帰宅してターキー、いんげん豆、じゃがいも(丸々)の料理を4人で食べてるとコリーの就職申し込みを
した雇い主のイラン人からマイクに電話がかかる。長い電話でカルラも緊張してるので我々も黙々と食べた。
トルコの美術品や古書籍を収集してる人で翻訳や整理をする人を募集してる。
マイクは「アメリカ人なら親の家に電話したりしない」と言ってる
。夜の10時20分に次女のマラ一家が孫キャシディーを伴い、ヴァージニア州からやってきた。
私は子供の親のダグにビールを注いで長途の旅(7時間)をねぎらった。
彼は43歳でマッサージやレストランで働いてるらしい。
マラはワシントンポスト等のコラムに投稿してるフリーライターである。
カルラによればマラは奨学金を得てボストン郊外のブラウン大学を卒業したらしい。
10日の朝まで彼らと同じ屋根の下で暮らすことになる。
美津子はマラには真珠のネックレス、キャシディーには羊の可愛いぬいぐるみを贈った。
カルラからユダヤ人社会では赤ん坊をほめた後に“横を向いてPu!Pu!Pu!“というのを習った。


続きは ニュージャジーの秋 NO.2 クリックして下さい。
 ニュージャジーの秋 NO.2

 YOU YOU PAGE